
ニューヨークにある大学病院の受付の壁に掲げてある詩を紹介します。
ある戦士が亡くなった時、ポケットにあった紙に書かれていたと伝えられています。作者の名前はわからず、タイトルもないので「ある無名戦士の詩」、「悩める人へ」などの題名で呼ばれています。
ある無名戦士の詩
大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、
謙遜を学ぶように弱いものとされた。
より偉大なことができるように健康を求めたのに、
よりよいことができるように病気を戴いた。
幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧しさを授かった。
世の人々の称賛をえようとして成功を求めたのに、
神を求め続けるようにと弱さを授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。
神の意に添わぬものであるにも拘わらず、
心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。
(訳:渡辺和子)

この詩を読んだ時、書いた方の人生は苦難の連続だったかもしれないけれど、感謝で心が満たされ、幸せのうちに亡くなられたのではないかとの感想を抱きました。
幸不幸
不幸に見舞われることが、人を不幸にするのではないようです。
人は自分の真の望みで内面を満たすよりも、うわべの望みで自分を満たそうとした時、仮にその望みが手に入ったとしても心は満たされず、不幸だと嘆くことがあるのかもしれません。
随分前のことになりますが、腰椎の椎間板ヘルニアの痛みで歩けなくなり、起き上がれなくなった時期がありました。その時に生まれて初めて、命を与えられていることに、それが自分ではままならないことに、生かされていることに気づくことができました。
気づきにはふたつあります。ひとつは、気づいて自分の行動を変えないと変わってはいかないこと、もうひとつは、気づいて腑に落ちたことで霧が晴れたように変われることです。私の気づきは後者でした。
人生が平穏な時でさえ、生きていると日々いろいろなことが起ります。喜怒哀楽の感情を持っている私たちは心穏やかには過ごせず、もやもやした思いでいることもありますが、それも生きているからこそのことです。生きていることさえもあたり前ではありません。

生れてくるのも、命が尽きるのも、人間の存在そのものも不思議といえば不思議なものだと思います。人生には限りがあり、いつか命は尽きてしまいます。どんな死に方であってもそこで命が尽きてしまうことには変わりがありません。命の長さは決まっているのかもしれませんが、いつどのように人生が終わるのかは誰も知らないことです。同じ病に罹患しても余命はひとり、ひとり違います。自死であっても、事故死であっても、その時で命が終り人生が終ります。そういった意味ではいくつで亡くなっても、どんな終わり方であっても、それぞれ天寿を全うして命が尽きるのだと思います。

どう生きるか
天寿を全うする時がいつなのかはわかりませんが、それまでどう生きるかです。
詩を書き残した兵士のように
謙遜を学び
より善いことをしょうとし
賢明であろうとし
人知では計り知れないことがあることを知り
足ることを知り
といった心掛けで生きることが心の充足につながるのではないでしょうか。

自分がもうすでに持っているものに目を向けずにいたり、当然あるものと思っていたりすると、感謝の心は持てないのかもしれません。
感謝の心で一生を終えられる人の人生は、幸せな人生だと思います。