コロナの時に➉自由とは

三度目の緊急事態宣言が発令されています。長期にわたり行動が制限されるコロナの時に「自由」ということが意識されてきました。

実際に自由かどうかではなく、制限がかかり自由にできないと思うとなんとなく気持ちが晴れないものです。

 

「もっと自由な時間がほしい」

「仕事を早く終わらせて自由にしたい」

「自由にのんびりと過ごしたい」 

 

 「自由」は身近なことばですが、あまり深く考えたことがありませんでした。

「自由」は伸び伸びしたイメージ、対義語の「不自由」には窮屈なイメージがあります。

 

例えば、仕事で会社に拘束されている時間、また家族も含めてたいせつな人や周りの人との関係の中で制限されることはたくさんあると思います。そういったことに対して、私には「不自由」ということばは当てはまりません。ひとりで生きているわけではありませんし、仕事では制限されることを不自由だとは思わないからです。こうしようと自分で決めたことには不自由さを感じません。

不自由だった自分のこと

私の中では「自由」を語るより、「不自由」の方が語りやすいです。

かつてセクシャリティのことで、窮屈極まりない「不自由」な人生を歩いていたことがあります。

過去をふり返ってみると、「硬くて重い鎧」を身にまとっていた時期がありました。それを脱ぐべきではないし、脱げないという信念のようにもなっていました。重くて固い鎧は、随分不自由だったはずですが、その重さや硬さを感じるどころか、鎧をまとっているという意識さえありませんでした。

事の発端は幼い頃の「本来の自分のままであってはいけない」という幼いながらに周りや世間の反応をみての「思い込み」からです。そう思い込んだきっかけになった時のことを私は今でも憶えています。居心地の悪さといったらありません。

成長するとともにますます隠さなくてはいけない、自分のままであってはいけないと思い込みは強化され、だんだん鎧は厚くなり重くなっていきました。鎧は自分とだんだんと一体化していき、意識されなくなっていきます。

個性のこと

「個性」というものはクレパスで書いたものの上に、どんな絵具を塗っても地のクレパスの色が浮き出てくるようなものです。覆い隠すものでもないし、事によってはそもそも覆い隠せません。

鎧をまとうことを選んだのは私ですが、成長しておとなになったら、もう幼い頃に選んだことをそのまま選び続ける必要はありません。選択しなおすことができます。

自分自身が私のことをわかっていなかったことに気づき、また他の選択肢があることに気づけた時、私は鎧を脱ぎ捨てたくなりました。それは当然のことでした。やがてあんまりな窮屈さにその鎧を脱ぐことになります。

ゾウのたとえ話

生きていく過程で、人それぞれになにがしかの「思い込み」があるのかもしれません。自分の限界を決めてしまうことやある物事に囚われてしまうことのたとえ話に「鎖につながれたゾウ」の話があります。

「スペインの絵本表紙」出典

サーカスの見世物の子どものゾウは、いつも頑丈な鎖でつながれていました。子ゾウは自由になろうと、あちこち動いてみますが鎖につながれているため鎖の長さ以上には動けません。子ゾウなので鎖を切る力もなく、何度も失敗するうちに動ける範囲でしか自由になれないと思い込み、それ以上動くことをあきらめてしまいます。月日は流れ、大人になったゾウは、つながれている鎖を引きちぎる力も、鎖を止めてある杭を抜く力も充分にあるのに、子どもの頃に体験したそのままに「鎖は切れない」「杭は抜けない」「鎖の長さ以上には行動できない」と信じてしまっているので、抵抗することなく一生鎖につながれたまま過ごします。

このゾウの絵本の表紙を見て

あなたは

この子ゾウがおとなになって自由になれると思いますか?

この子ゾウはおとなになっても自由になれないと思いますか?

自由とは

人にはトラウマというまでもなく、子どもの頃の教育や環境などなどからくる「思い込み」から、このたとえ話のような経験を持つことは多々あるのではないでしょうか。

私にとって「自由」とは、ひとつの考えや思いに囚われず、自分で「決めて選べる」ことです。自分の鎖を解き放つのも、解き放たないのも自分の意思で選択できることが自由だと思います。人生に正解はありません。人生は自分次第、選択次第です。幸せには自由なこころが欠かせません。