置かれた場所で咲きなさい 

皆様は渡辺シスターをご存知でしょうか?

私は、ベストセラー「置かれた場所で咲きなさい」の著者で、今は亡き(2016.12.30逝去) シスター渡辺和子さんの大ファンです。

 

京都での講演会拝聴の機会を逃していた私は、生前ご高齢になられた渡辺シスターのお顔をじかに一目見ようと、2012619日の倉敷の講演会に出かけました。ネットなどで拝見するのとそのままの印象で、椅子に座ることなくお立ちになったままでお話しされるお姿は、愛嬌がありかわいらしいおばあさんの雰囲気でしたが、お顔にはどことなく意志の強さが感じられました。

渡辺シスターを知ったのは、15年以上も前に書店でたまたま手に取った『目に見えないけれどたいせつなもの』(PHP研究所 2000年刊)でした。

 

シスターの著書との出会いは、当時40歳台後半にさしかかろうとしていた頃、決断をしないと前に進めない、どう生きればいいのかと途方にくれ、人生の振り出しに戻されたように感じていた私のこころにひかりを射す内容でした。

 

物事をどういう捉え方をするかの指針となるヒントや、人生を生きる知恵がたくさんつまっていました。それをきっかけにその後もシスターの著書を読んでいき、すっかりファンになったのです。

 

読んでいくうちにシスターがどんな人生を歩んで来られたかを知りましたが、敬愛する方であるけれども、とても私のこころに馴染むもので、親近感の湧く存在として、私に語りかけてくれているようでした。私にとってはとても身近な存在のように思える支えとなりました。

カトリックのシスターというと、どんなイメージがありますか。

 

シスターのいくつかのエピソードをご紹介します。

渡辺シスターのこと

お父様は二・二六事件で、シスターが9歳の時、シスターの1メートル程の距離のところで命を落とされています。お父様が、一生分の愛情を9年間で注いでくれたといわれる程の最愛の父を亡くすことで、どれだけこころに痛手を負われたことでしょうか。

 

半ば強制的に入学させられたミッションスクールの雙葉中学では、のびのびとした小学校から入学した中学に息が詰まる思いがして、雨の日に校舎を走り回った挙句の果て、階段を二段跳びに駆け降りたシスターは、突き当りのガラス窓の中に手首を突っ込み15針も縫うケガをしたという、晩年のシスターからは想像もつかないようなお転婆娘だったそうです。

 

36歳の時のシスターの話です。岡山の清心女子大学修道院でのこと、仕事から戻り「ただいま」と挨拶したのに、話し合っていた二人の内の一人は「おかえりなさい」と言ってくれたが、もう一人は何も言ってくれなかった。こんなことで傷ついてどうすると分かっていながら、恥ずかしいような些細なことでこころが波立つことがあると語っておられます。

渡辺シスターが、著書の中で、繰り返し紹介されている祈りと詩があります。

ひとつは、アメリカの自由主義神学者、牧師であるラインホールド・ニーバーの祈りです。

ラインホールド・ニーバーの祈り

主よ、変えられないものを

受け入れる心の静けさと

 

変えられるものを変える勇気と

 

その両者を見分ける英知を

与え給え

もうひとつが同じくニーバーの詩、表題の「置かれた場所で咲きなさい」です。

渡辺シスターは、30歳間際で修道院に入る決意をされ、アメリカでの修練の後、36歳という若さで、岡山のノートルダム清心女子大学学長に就任されました。初代も二代目も70歳後半の学長だった後任として、二代目の学長の急逝により三代目の学長に就かれたとのことです。

 

その重責に自信を喪失し、修道院を出ようとまで思い詰めたシスターに、ある宣教師が渡してくれたのが、「置かれた場所で咲きなさい」

だったのです。

置かれた場所で咲きなさい

置かれた場所で咲きなさい。

仕方がないと諦めるのではなく、人生の最善を尽くし、花のように咲きましょう。

 

咲くということは、幸せに生きることです。

あなたが幸せになれば、他の人々も幸せになります。

あなたが幸せであることを、笑顔で示せば、

あなたの笑顔が広がっていきます。

他の人々は幸せを知り、彼らもまた幸せになるのです。

 

神様はあなたを意味のある場所に置かれたのです。

あなたが他の人々とそのことを分かち合えば、あなたの人柄が輝きます。「輝く」ということは、「笑顔を咲かせる」ことなのです。

 

神様が私を置かれた場所で、私が笑顔を咲かせる時、

神様は私を人生の心の庭で、幸せ色の美しい花として咲かせるのです。

置かれた場所で咲きなさい。(ラインホールド・ニーバー)

 

(掲載元:中部学院大学・中部学院大学短期大学部_チャペルアワー 2018年後期より引用)

渡辺シスターと「置かれた場所で咲きなさい」

渡辺シスターは決断されました。

『私はかわりました。そうだ!!置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり、不幸せになったりしては、私は環境の奴隷でしかない。

 

人間と生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり、自分の花を咲かせようと決心することができました。

それは「私が変わる」ことによってのみ可能でした。

 

「あいさつしてくれない」こんなに苦労しているのに、「ねぎらってくれない」「わかってくれない」というくれない族の自分と決別し、私から先に挨拶をし、微笑みかけ、お礼をいう人になったのです。』と。

 

 (「置かれた場所で咲きなさい」より引用)

私と「置かれた場所で咲きなさい」

私はこの詩を「幸せにおなりなさい」との神様からの呼びかけのように受け取っています。

 

人生の選択は誰に強制されるものではなく、自分で選びとっていくものではありますが、縁や事情などの巡り合わせで、思いもしないところに置かれる(生きていくことになる)こともあるかもしれません。他に選択肢がないように思え、変えようがないと思うこともあるかもしれません。

 

あきらめるということではなく、「今はここで根を張り生きる」と決断するなら、仕方がないと思うより、困難なことがあった時に耐えやすいのではないでしょうか。不平不満の中で生きるより、ここでどうすれば楽に生きられるか、笑顔になれるかという視点でとらえてみたら、違うものが見えてくるかもしれません。山あり谷ありの人生の中で起こることには意味があると思うことで、学びにもなります。

 

自分にも人からは見えない部分、苦難の時があるように、人にも見えない部分があり、苦難の時があるかもしれないと思える時、人にも笑顔が向けられるのではないでしょうか。人に向けた笑顔は、自分自身にも向けられた笑顔でもあると思っています。

こころに響くことば

同じ書物を読んでも、同じことばを聞いても、解釈や受け取り方は人それぞれです。

「置かれた場所で咲きなさい」この詩を読んで、あなたはどのように感じますか?

 

私は読むなり、聞くなりして、こころに響いたことばを取り入れて、本来の意味ではないかもしれないけれど、自分なりに解釈してこころの肥やしにしています。